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現代教養文庫
『伊能忠敬』
 今野武雄 著
『伊能忠敬』カバー
 一八〇二年に、伊能忠敬と師の高橋至時(たかはしよしとき)の必死の努力によって、地球についての科学的認識の第一歩が日本ではじめて踏み出され、それにもとづいて地球上における日本の国土の位置と形状とを正確にあらわした地図が作成されたのであった。
 これをなしとげた伊能忠敬は、下総(千葉県北部の利根川寄り)の水郷都市佐原の一酒造家であり、しかも五十歳で隠居してから高橋至時について天文学を学び、測量をはじめたのは五十五歳になってからである。平均寿命が七十歳以上に延びた現在でいえば、七十歳を越えてからはじめた事業だといってもよいであろう。
ISBN4-390-11650-9 本体価格600円
240頁 2002年4月発行

……伊能忠敬については、すでに一九一七(大正六)年に岩波書店から刊行された故大谷亮吉(おおたにりょうきち)氏の大著『伊能忠敬』がある。これは一九〇八(明治四十一)年の旧帝国学士院の総会の決議により、同院の事業として大谷氏に調査を委嘱し、『測量日記』その他の実測資料や実測器具等を綿密に検討してでき上ったもので、ほとんど完璧(かんぺき)に近い伝記である。伊能忠敬について研究するためには是非ともこれを基にしなければならない。しかし、同書はすでに久しく絶版になっていて手に入りにくい。また多数の引用文は昔のままの文章で読みにくく、器具や技術上の説明は専門的で、一般には理解が困難である。

 本書を書くについては、もちろん同書を第一の参考にし、さらに筆者みずからの眼で事跡を確かめるために忠敬の出生地、実家、佐原等をたびたび訪れ、現地の研究者や古老の教えを受けた。特に、佐原に計理事務所をひらいておられる海野正造氏からは同氏著の『偉人伊能忠敬翁とその子孫』、『水戸藩騒動天狗派余聞佐原騒擾(そうじよう)の真相』など貴重な資料をいただいた。私が佐原や伊能家についてはっきりしたイメージを持ちうるようになったのは同氏のおかげである。

 なお、引用した資料はほとんど大谷氏からの抜粋であるが、読みやすくするために現代語訳し、また、歴史的な環境や背景についても筆者なりの説明を加え、伊能忠敬を単なる過去の偉人としてではなく、できるだけ身近な人物として感じられるように書くよう努力したつもりである。これによって一人でも多くの方々に伊能忠敬の人間像を感じとっていただければ幸いである。……
「はしがき」より
 目 次
 はしがき
一 生いたち
二 伊能家
三 伊能家における忠敬
四 暦学と天文学のこと
五 江戸修学時代
六 蝦夷地測量の交渉
七 蝦夷地の測量
八 第二次の本州東海岸の測量
九 第三次の測量
十 西国の測量
十一 その後の測量と日本輿地全図
十二 シーボルト事件について
十三 忠敬図のその後
 むすび
 関連人物年表
 略年譜

「むすび」より
……忠敬の仕事ぶりを見ていると、むしろ、地球の大きさを見極め、その地球上における日本各地の位置を正確に認識して、それを地図にあらわす、という科学的な仕事自身が彼の献身の目的であり、真の動機であったと思えてくる。それほどに彼はこの仕事に打ちこんでいる。ほかの動機はそのための副次的なものと考えなければならないであろう。

 忠敬は、天体観測についても、地上の測量についても、地図の作成についても、正確さを求めて全力をつくしたが、世の中のことについてもすこしも甘さがなく、幕府や諸侯の役人たちや村役人たちにたいしても、用心深く、しかも恐れずに交渉をしている。その点は間重富(はざましげとみ)をはじめとしてみんなが認めている。十数年間つづけた測量事業の成功のためには、自然に対してだけではなく、社会に対しても正確に認識していくための努力がたえずなされたにちがいない。高橋景保(かげやす)と間宮林蔵のような正反対の傾向と性格をもった人々がともに忠敬にたいし親しみながら敬意をはらっていたのも、そのためであろう。……

……伊能の時代は日本における学術・文化の歴史のうえで他に類のない、特筆すべき時代であった。それは科学や文化が町人生活のなかに浸透し、その中から新しい活力をくみとって芽を吹きだした時代であった。その積極面を評価し、これを継承してゆくことは今日でも大いに必要なのではあるまいか。
著者略歴
今野武雄(こんの たけお)
1907年東京生まれ。31年東京帝大理学部数学科卒。科学史、数学啓蒙の分野で活躍。主要訳書に『百万人の数学』(L・ホグベン)、『新科学対話』(ガリレオ・ガリレイ)などがある。90年死去。

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