トップページへ| 文元社の本| 注文方法| 会社案内| 話題の本

◆コラム

皇民化教育を受けた朝鮮人学徒が祖国のために選んだ道
―『内なる祖国へ』(原書房刊)を書き終えて―
河田宏

 3年前の2002年からわれわれ日本人の関心は北朝鮮による拉致問題に集中している。04年の年末には横田めぐみさんの遺骨として日本に渡された骨が、DNA鑑定で別人のものと判明し、北朝鮮非難の声は一段と高まった。
 同じときに目黒の祐天寺で朝鮮人戦争犠牲者の慰霊祭が営まれていた。いまなお1136柱の遺骨が返還されないまま祐天寺の仏舎利殿に仮安置されている。慰霊祭は毎年8月22日に営まれているが、今回は特別であった。北朝鮮出身の二柱の身元が60年ぶりに判明し、遺族が引き取りに来日することになった。それに合わせての慰霊祭であった。
 もう一柱、10年まえから判明している遺骨がある。盧龍愚(ノ・ヨンウ)。通名河田清治。本書で取り上げる人物である。彼の遺骨も返還されていない。彼の場合は遺族からの引取申請がないので返還できないでいる。

 盧龍愚は小学生時代から皇民化教育を受けた真面目な少年であった。朝鮮人学徒出陣で航空将校となり、静岡県寸又峡近くの上空でB-29に体当り、戦死した。二階級特進して陸軍大尉。いま韓国国会で審議されている「反民族親日行為真相糾明法」によれば糾明の対象となる。
 彼は朝鮮人でありながら何故体当りしてまで戦ったのか。日本のためではない。家族のため、朝鮮のために戦ったはずである。日本人の立場で彼の心の深層に迫るには限界があるかもしれない。しかし、日本で書かれなければならないことであると思う。
 併せて、その24年後の寸又峡で、死を賭して日本と日本人を告発した金嬉老(キム・ヒロ)の終戦の日までを描いた。両者に何のつながりもないが、二人はそれぞれの時代に、それぞれの立場で共通の問題を提起したのではないだろうか。

 日本の朝鮮支配の特徴は、「1910年代は土地よこせ、20年代は米よこせ、30年代後半からは人よこせ、命よこせと区分できる」といわれている。人よこせは強制連行であり、命よこせは徴兵である。
 日韓併合を欧米列強の植民地支配と比べると、一視同仁、内鮮一体の平等主義だという向きがいまだにいるが、現実は植民地的収奪そのものであった。そのことを身に沁みて知っているのは朝鮮民衆である。
 註 1910(明治43)年8月に韓国併合に関する日韓条約が締結されるが、その前年の7月に日本政府は秘密裏に殖民地化を誤魔化(ごまか)すために「併合」と表現することに決めていた。それがいまだに使われている。
 当然、反対運動は起こる。中国東北地区間島(カンド)やシベリア沿海州を根拠地とする抗日独立闘争が盛んになり、上海には大韓民国臨時政府が樹立される。国内では民族的アイデンティティを守るための民族学校が次々に設立されるし、1919年には朝鮮全土に波及した三・一独立運動がおこる。ここで日本は武断政治から文化政治という宥和政策に転じるが、さきに挙げた支配の本質が変るわけではない。1937年7月に日中戦争が始まると、朝鮮に志願兵制度が設けられ、44年4月からは徴兵制が施行される。それに先だって43年11月、日本人学徒出陣の1ヵ月後に朝鮮人学徒出陣が実施された。日本語を理解できない朝鮮人徴集兵を、兵士として教育し実戦に投入するためには、日韓両語を解する高学歴者を下級指揮官とすることが不可欠だったからである。その詳細は姜徳相著『朝鮮人学徒出陣』(岩波書店)を参照されたい。

 本書の主人公盧龍愚(ノ・ヨンウ)はこの学徒兵の一人である。正確にいうと、その少しまえに募集した陸軍特別操縦学生(特操)T期生である。豊かではないが、子供を中学校まで上げられる家庭に育ち、優秀な子供だったので親族の援助で京城法学専門学校という司法試験合格率のもっとも高い学校に進み、弁護士になるべく勉強していた青年であった。
 1922年生まれの彼は小学校から日本語教育を受け、中学からは徹底的な皇民化教育を受けた。この世代の朝鮮人青少年の知識は日本の同世代とほとんど同じであった。しかも盧龍愚の場合は、弁護士になるべく選んだ専門学校の校長が皇民化教育の権化みたいな人物だったので、彼はその強権下で学ばなければならなかった。
 盧龍愚は朝鮮民族の一人である。内鮮一体といっても、その実体は身に滲みて知っていた。日本統治下の朝鮮を改善していくにはどうしたらよいか。独立運動に走った友人もいる。彼らは朝鮮を離れ、間島(カンド)、延安、重慶に行って独立戦争に参加している。

 しかし盧龍愚はそういう道を選ばなかった。日本統治下ではあるが、朝鮮の地でいかに生きるかを考えた。皇民化教育の影響もあろう。それ以上に、ほとんどの朝鮮人はこの地を離れては生きていけないという現実があった。どうにも生きていけなくなって、日本や満洲(中国東北地区)に渡る人が多くなったが、できることなら何とか生まれ育った地で生きたいのだ。
 日本統治は当分続くであろう。加えて、太平洋戦争が始まると日本は連戦連勝。またたくまに東南アジア全域を占領してしまった。日本が敗けて朝鮮が独立するということはますます考えられなくなった。日本統治下で何とか民族の伝統を守り、生活条件を良くしていくことを考えるしかないのではないか。そのためにこそ彼は法律を勉強しているのだ。彼が拠り所にしたのは、中学時代の恩師に教えられた東亜連盟運動であり、太平洋戦争に参加しなければならないのではないかと思わせたのは1942年2月に出版された大川周明著『米英東亜侵略史』を読んだからであった。 

 この本は日米開戦の7日後から12日間ラジオ放送された講話を単行本にしたもので、この戦争が東亜解放戦争であることを強調したものであった。たちまちベストセラーとなる。内容は米英の東亜侵略に絞ってあるので単純明快。それを大川周明流の学識とエピソードで潤色してあるので、いま読んでみても面白い。当時の青年たちがこの本を読んで欧米白色人種、特にアングロ・サクソンの東亜侵略の経緯を知り、憤慨し、戦争を肯定する気持になっても不思議ではない。
 盧龍愚は日本のために闘ったのではない。この戦争を日本人同様に、いやそれ以上に戦い抜くことによって、朝鮮人の生活条件が改善され、願わくば日本の統治を脱する契機になるとまで考えていたのではないか。少なくとも自治権の獲得は東亜連盟運動の目標でもあった。たとえ戦死しても、朝鮮人かく戦えりという実績を残せば、必ず実現すると思っていたに違いない。
 彼は最後まで生きようとした。B-29に体当りして落下傘で降下したが、惜しむらくは半開きで墜落死してしまった。

 金嬉老は静岡県清水市に生まれた在日二世である。朝鮮人差別の屈辱に我慢できず、小学校3年から学校に行かなくなってしまった。それから40歳になるまで日本中を放浪しているが、ことあるごとに清水の母親の元には戻っていた。さまざまな仕事をするが長続きしない。日本人の理不尽な対応が許せず、争いが絶えないのだ。彼は情念の人である。間違っていることは間違っているのだ。
 そしてついに、自分と日本に決着をつけるつもりで寸又峡に立て籠った。日本と日本人を告発して死ぬつもりだったのだ。
 彼が死を賭して提起した問題は大きい。盧龍愚の死を合わせて考えると、日本と朝鮮韓国の問題が複合的に見えてくるのではないだろうか。

2005年2月26日

河田 宏(かわた ひろし)
1931年東京生まれ。早稲田大学文学部社会学科中退。日本近現代史、軍事史を中心に著述活動。著書に『明治四十三年の転轍』(文元社、教養ワイドコレクション)、『第一次大戦と水野広徳』(三一書房)、『満州建国大学物語』(原書房)などがある。
『内なる祖国へ――ある朝鮮人学徒兵の死』(原書房)は、四六判上製、246頁、定価1,890円で好評発売中。


ご質問・ご不明の点は、お客様のお名前・〒・ご住所・お電話番号をご記入の上、当社営業部まで電話・ハガキ・FAX・電子メールなどでご連絡ください。

株式会社 文元社

〒134-0087
東京都江戸川区清新町1丁目1番地19-106

TEL : 03-6240-5122
FAX : 03-6240-5177

E-Mail:
info@bungen.jp


※当社の新刊案内などのメールをご希望の方は〒・住所・氏名・年齢・ご職業などをご記入の上、 メール info@bungen.jpへお知らせください。

◆◆◆

トップページへ| 文元社の本| 注文方法| 会社案内| 話題の本